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研究と不正とイノセンス
前回の記事で研究について思うことを書いた。
研究が役に立つかどうかという以前の話を書いたつもりだ。
一言でまとめてしまうと、私は研究がイノセントであることを望んでいるのだと思う。
汚れのない、純潔な、無邪気な、……日本語にしてしまうとどこかしっくりこないので敢えてカタカナ英語を使わせてもらう。
カタカナ英語は輪郭をボヤけさせることに有効だ。
ウィズコロナ。
そんなことを考えていると、こんなブログを見つけた。
http://taichitary.hatenablog.com/entry/2020/05/01/223035
そんなことが重なって重なって,あぁ, トップ会議でもこれか。と思うようになってしまった。同時に,僕たちは何のために研究しているんだろうな,とも。
(中略)
俺が研究者として生きるなら,この研究に対するイノセントな気持ちも,少し殺して進めることもしていかないとまずいんだろうな。(「研究イノセント」より引用)
とても良い記事だと思う。
研究業界の問題を浮き彫りにしているし、何より真摯に研究に向かう姿勢が好きだ。
そこで今回は、私が望むこのイノセントについて書いてみたい。
イノセントな研究は難しい
さっそくだが残念なお知らせがある。
イノセントなままでは食べていけない。
いや、言い切れるわけではないが、とても難しいと思う。
ぴえん。
研究者として食べていくには定期的に論文を書かなければいけない。
研究者の業績が真っ白だったら、この人は何をしているのだろうと思うはずだ。
研究者は論文を書く。当たり前すぎる。
右足出して左足出すと歩ける。
あたりまえ体操。
しかしそれはイノセントな研究だろうか。
研究を山登りに喩えてみよう。
イノセントな研究のゴールが頂上にたどり着くことだとすると、その論文はせいぜい一合目くらい、いや始めの一歩程度かもしれない。
イノセントな研究はそれくらい壮大なものであるはずだ。
研究とはその小さな積み重ねで頂上までたどり着くようなものだから。
これはある意味食べていくための論文でもある。
頂上に到達したもののみが論文であるべきだとしたら、この世界の論文数は極端に少なくなる。
皆その道中に落とし所を見つけて、小屋を建てる。
小屋であればまだ良い。公園の砂場で作った山、つまり研究のための研究も存在する。
比喩的過ぎてごめんネ。
研究というものが職業として成り立ってしまうがゆえの問題だろう。
おそらくマックス・ウェーバーの『職業としての学問』あたりを読めばいいのかもしれないが、私は読んでないので何も言えねぇ!
これは何も研究業界に限った話ではないと思う。
例えば音楽で食べていくためには売れる必要がある。
売れるためには自分を抑えて商業的な音楽を作らなければいけないかもしれない。
売れることを選ぶか自分を貫くことを選ぶか。
いにしえより伝わるよくある悩みだ。
だからといってつまらない悩みというわけではない。
一人ひとりは真剣に悩んでいる。
ぴえん超えてぱおん。
研究という一見イノセントな業界にもこのような悩みがあることは知っておいてほしい。
研究に対する向き合い方
この問題に対する答えは、もちろんない。
おそらくざっくりと以下の2つの向き合い方がある。
・気持ちを犠牲にして、食べていくことを考える。
・食べていけなくなってもいいから、気持ちを大事にする。
私はどちらかと言うと前者だ。
とにかく食べていくことだけを考えれば良いと思っている。
魂を売った?
そんなことはない。
もちろん論文は真摯に書く。
山登りの一歩にも満たない些細なことなのかもしれない。
それでも真摯に。
その論文にあなたのイノセンスが残っているはずである。
その一文に、その一行に。
そのたった1つのピリオドに。
……これは言いすぎた。
とにかく、魂は売りようがない。
論文を読むときもそうだ。
一見業績を増やすだけの下らない論文に見えるかもしれない。
それでもどこかに著者のイノセンスが込められているはずだ。
それを探す。
とにかく探す。
サイゼリヤの間違い探しぐらい必死で探すんだ。
イノセントな気持ちは消えない
だからこそ私は不正が許せない。
その人に何があったのかは知らない。
苦しかったのかもしれないし、悩んだのかもしれない。
個人の問題ではなく、組織の問題、いや研究業界全体の構造上の問題かもしれない。
ドルチェ&ガッバーナの香水のせいかもしれない。
食うことばかりを考えすぎると、不正の二文字が頭をよぎる。
でもそれだけは間違っている。
もしそのようなことが頭をよぎったのならイノセントな気持ちが消えている証拠だ。
今すぐ研究を辞めるべきである。
研究を始めた頃のことを思い出してほしい。
イノセントなあの頃を。
イノセントな気持ちはそう簡単には消えない。
これだけは言い切れる。