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雑記2020.07.25

研究の肯定 〜役に立つかどうかを飛び越えて〜

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はじめに

「その研究何の役に立つの?」


研究に携わっていると一度は聞かれたことがあるのではないだろうか。

もしくは自分自身に問いかけている人もいるかもしれない。「この研究は何の役に立つのだろう?」と。


私自身、博士課程に進学した頃は、役に立つ研究がしたいと思っていた。

性能を0.1%向上させるために既存の手法を組み合わせてパラメータをあれこれ調整することに何の意味があるのか。

最新のiPhoneにはカメラが3つも付いている。私たちが求めていた進化はこれなのか?次は4つになるのか?


もっと本質的なことがあるはずだ。そんなことを思っていた。

しかし、理想ばかりを追い、現実とはかけ離れた数理モデル上で最適解を求めることに意味を見出だせなくなり、大学を辞めた。


そんなこともあり研究が役に立つとはどういうことかずっと考えている。

今は仕事をしながら大学に戻り研究をしている。役に立つかどうかなんて考えていないし、博士号が取れなくてもいいとさえ思っている。学費は自腹なんだからええじゃないか。あ、でも先生にこれが見つかったらどうしよう。気まずい。


とにかく、なんとなく今思うことを書いてみたい。誰に向けるわけでもないが、強いて言うならば過去の自分に向けて。


研究が役に立つとは?

経済的な価値

そもそも役に立つとはどういうことだろうか。


多くの場合、経済的な利益をもたらすということだろう。つまり、お金になるかどうか。例えばその研究に1億投資したら2億になって返ってきてほしいということ。

倍返しだ。


これを研究の経済的価値と呼ぼう。


しかし、研究にはそもそも答えがない。もちろん研究計画を立て、それに従って進めていくわけだが、それが思い通りにいくことなんてほとんどないだろう。そんなものに投資するのはある意味ギャンブルだ。

念入りに計画を立てれば良いかもしれないが、ある程度先の見えた計画はもはや事業計画。未知のことを明らかにする研究とは相性が悪い。研究とお金の問題は税金も関わってくるので難しい問題だが、少なくとも研究を経済的な価値のみで評価するのはあまりよろしくなさそうだ。


文化的な価値

そこで、次に文化的な価値を考えてみたい。

芸術や文学、音楽、スポーツ、ゲーム……挙げるとキリがないが、私たちは数え切れないほどの文化に囲まれている。


その一つとして研究というものの価値があるのではないか、ということである。


もちろんこれらの文化は経済とは切っても切り離せない。

例えば音楽を聴くためにはお金を払う必要がある。無料で聴こうとすると広告という経済の化身が邪魔をしてくる。スポーツが話題になれば経済効果はどれくらいかという視点から語られる。


ただ唯一経済から切り離されているものがある。

それは感動だ。


三千円で買った本より、100円で買った中古の本に感動することだってある。いや、もしかしたら値段すら付いていないかもしれない。あなたが感じたことはお金では計れない。

プライスレス。


そう、研究には人を感動させる力がある。これが研究の文化的価値である。


だからといってこれこそが研究の真の価値だと言いたいわけではない。

フェルマーの最終定理が解けたことに感動した人はどれくらいいるのだろうか。正直に言おう、私は解法を理解できていないし、理解しようとも思っていない。もちろん、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』に感動することとは別次元の話である。


結局、研究そのものに文化的な価値を感じる人は限られている。

それを伝える努力をすることは大事だが、音楽やスポーツ等に比べてやはり圧倒的に伝わりづらい。伝わりやすいように単純化すると、研究の本質からズレてしまうという大きなジレンマを抱えている。


素数を通して考える

ここで一旦、素数を数えて落ち着こう。

2, 3, 5, 7, 11, 13, 17, 19, ...


「数学は何の役に立つの?」という疑問を抱いたことがある人は多いだろう。大概の意訳は「数学をやりたくない」だったりするらしいが。それは置いといて、具体例として素数がいかに役立っているか紹介してみよう。


暗号技術を支える素数

RSA暗号という暗号技術の安全性は素因数分解の困難性というものに支えられている。


例えば来年は2021年であるが、2021は素数だろうか?

暗算が得意でなければ、たとえ電卓があってもパッと答えられないだろう。


2021は素数ではない。43 × 47 = 2021 である。

電卓で確かめてみよう。すぐにできるはずだ。


素因数分解の困難性とは、正にこれである。

2021 を 43 × 47 に分解することは難しい。しかし 43 × 47 が 2021 になることを確かめることは簡単だ。


これが何百桁にもなるとスーパーコンピュータを使っても1万年、いや1万光年掛けても解くことはできない。

しまった。1万光年は時間じゃない、距離だ。


つまり、ある方向への計算は簡単だが、その逆方向は難しいということである。

喩えて言うなら、釣り針。刺すのは簡単だが、抜くのは難しい。

もしくは、ジェンガ。崩すのは一瞬だが、組み立てるのは面倒くさい。

これらの喩えが合っているかは知らない。


行きはあんなに長く感じたのに、帰りはあっという間だったね。

たぶんこれは違う。


とにかく、素数がなければ暗号技術はここまで発展していないし、暗号技術がなければインターネットは成り立っていない。100日後にワニが死ぬこともない。素数がもたらした経済効果は計り知れない


素数の魅力

一方、文化的なものとして素数を見てみよう。

おそらく数学をやっていると素数に何かしらの魅力を感じる人は多いはずだ。その一端に触れてみよう。


2021は素数でないことが分かったが、2023はどうだろうか?

そんなことどうでもいい……と思った人もいるかもしれないが、少しでも気になった人はすでに素数の魅力に触れていると思っていい。

残念ながら、2023 = 7 × 17 × 17 だから素数ではない。


では次に素数になるのは西暦何年だ?そんな疑問を抱いたらもうあなたは素数の魅力に取り憑かれている。

元々そんな疑問に意味なんてない。今年が素数だからって何もいいことはない。


意味がないのに湧き上がる感情。それこそが魅力、つまり文化的な価値ではないだろうか。


たまたま見た時計が2時22分22秒だったらなぜか嬉しい。

買い物をしたら777円だった。ラッキー。

でもそんな数字に意味はない。


だから、来年が素数かどうかなんてどうでもいいと思っている人は何も間違っていない。

空の青さに感動しているかもしれないし、犬の可愛さに悶絶しているかもしれない。人それぞれだ。


ちなみに次の素数年は2027年。ひつじ年だ。ひつじを数えて眠りにつこう。


素数の価値

さて、素数には経済的な意味でも文化的な意味でも価値があることが分かった。


ここで一つ注意しておきたいのが、素因数分解の困難性はRSA暗号を発明するために生まれたわけではないということだ。元々あった素数の性質がたまたま暗号に活用できたということである。


ではなぜそのような性質があることが分かっていたのか。

それは素数に魅了された人たちが研究を重ねていたからである。何かに役立てようという思いはなかったはずだ。


事実、整数論は役に立たないと言われていた。整数論の研究者は白い目で見られていたかもしれない。しかしどうだろう。今日のインターネット社会は整数論なくしては成り立たない。このような例はいくらでも挙げることができる。


研究の肯定

大きく話が逸れてしまったが、話を研究に戻して締めに入ろう。


研究には経済的な価値と文化的な価値がある。

そのどちらかもしくは両方が大事であるなんてことを言いたいわけではない。


こうである。

人が何かに魅力を感じ、疑問に思い、解き明かしたいと思ったことに価値がないわけがない。


あなたが美しいと感じたこと、知りたいと感じたことは疑いようもない事実だ。

それが役に立たないなんて誰が言えよう。


素数の性質がたまたま役に立ったわけではない。人は元々そのようなモノを美しいと思うし、それを活用することができる。


だからこそ私はあなたの研究を肯定する


性能を0.1%向上させるための本質的でない研究と言われているかもしれない。

理想的な数理モデル上で構築した現実には何の役にも立たない理論だと言われているかもしれない。

そんな研究意味あるの?と言われているかもしれない。


それでも私はあなたの研究を肯定する

心からそれを解き明かしたいと思っている限りにおいては。


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